double standard

平成仮面ライダーへの思い入れを語ります。現在は更新停滞中。

『仮面ライダーオーズ/OOO』〜間違ってない平成ライダー

わたしはこういうのが見たかったんだよ!

仮面ライダーオーズ』が大好きです。というかですね、『オーズ』があるから余裕を持って以降のシリーズを見守れているところがあるんですよ。
そう、欲望が満たされた!作品コンセプト的にはそれはそれでよくないのですが!

いろんな要素が趣味に合ったっていうのがまずは一番なんですけど、それもふまえてなおかつ、平成ライダーを見てきて「見たかったもの」がここにあるからなんです。


ヒーローが救われる話が見たい

そもそも平成ライダーの特殊さとは、主人公がヒーローにならなければならない、というところです。ヒーローだから主人公、ではないのです。
ヒーローをやれてしまう人格とはいったいどういうものなのか。というのを現代的に向き合って描いたのが「平成」ライダーでした。
そこのところにわたしは惹かれたわけなのですが。しかし、10作までいってまだ不満というか、こういうのやらないかなーと思うようになっていました。
それは――徹頭徹尾主人公の物語が見たい。
主人公本人にとってヒーローになることに意味を持つ物語が見たい。

平成一期はわりと構造的というか、主人公ですら遠景にいたりすることがあるので。『555』や『龍騎』は結局、群像劇ですし、主人公のお話ではあるんですけどそれ以上にテーマの方がでかいんですよね。
それに、向き合った結果どうしたら救えるかという問いかけをえんえん手探りでやっていたわけで、それをもう何回もやったし見えてきたものがあるはずなので、一つの答えとしてお話で見たいな、と思っていたのです。

でも、それはまずやらないかなーと思って半ば諦めていたんです。っていうのは、わたしの持論「ヒーローなんかやるやつは馬鹿か歪んでるかどっちか」に従うと、主人公=ヒーローが報われる話っていったら歪んでる主人公がその歪みを立て直す話になっちゃうからなんですよ。

いやだって、ヒーローなんか危険だし辛いし報われないし。正義感や倫理感あるいは優しさっていうのは基本で、さらにそこに人の身の一線を飛び越える「なにか」が必要になる。んで、普通は心の純粋さ=馬鹿に焦点を当てることになるわけですが。もうひとつが、危険に身をさらすことに意味を見出す=歪みだとわたしはとらえているのです。

まあそれが正しいかどうなのかってのはともかくとして。そう考えているので、それが見たいなーと思っていたのです。
でもまあ、そんな風にみんなが考えるわけじゃないし、普通やんないよなー。でもいい感じに歪んでる人を描きたがる傾向があるし、可能性はないわけじゃないよなー。
なんてことを頭の片隅で考えていたところに、『オーズ』が始まったのです。


『オーズ』とは火野映司のための物語

『オーズ』に描かれているのは、一人の青年がヒーローになるまでの物語です。実はこの特撮ヒーロー番組は、ヒーローの活躍を描くお話ではなかったのです。
『オーズ』は本当に徹頭徹尾、火野映司のためにある物語です。
サブテーマに「アンクとの奇妙な友情」がありますが、実を言えばそれすらも、映司くんのためにあるとすら言えます。

みなさまご存知の通り、映司くんは過去の挫折体験により人助けがアイデンティティになってしまった若者です。巨大な万能感が根こそぎ奪われ、そのために生じた空白がなにもかもすべてを飲み込んでしまおうとしている。さながら、宇宙船に空いた亀裂のように。
まあどう考えてもアブナイ。しかるべきカウンセリングが必要な人材ですが、残念ながら元の器がでかかったせいで具体的な行動ででしか埋め合わせがきかないんですよね。
それで出会うわけです。ベルトと、それからアンクに。

英雄には三種類いると言われます。なろうとしてなる者、なってしまった者、そもそもそうである者。
火野映司はヒーローになりたい男です。それはなぜかというと、彼の根本の挫折を癒すには、ヒーローになるしかないからです。そして、それがゆえに、彼はすでにヒーローであり(ヒーローとして行動することがアイデンティティを救うので)、また、ヒーローになってしまった男でもあるのです(挫折した瞬間、もうそれ以外の道がとれなくなってしまったから)。

人助けをすることで救われるって言うと『555』の巧が浮かびそうになるんですが、しかし彼は人助けが目的ではない。巧の場合は、「持っている力を正しく使えるようになることで自分を肯定することができるようになる」。力の使い方の問題なわけです。
映司くんは、誰かを助けられなかったことそのものよりもさらに深く、自分の行動そのものが間違っていたという挫折を取り返すための「人助け」なのです。

このお話は、ヒーローになることで火野映司という男が救われるお話なのです。実を言えば最終回まで彼はヒーローではない、と言ってもいい(はっきりヒーローやってるのはMEGAMAXまで待たなければならない)。



いやあ、歪んでいるなあ!
魂が救われるそのためになら命はどうなってもいいってことですからね。
いや、どうなってもいいというか、手放しちゃってる。それよりもなによりも、乾きが先行しちゃってる。捨て身ですらないんですよね。
人として半歩ズレちゃってるわけで、だから正直、「火野映司がキモチワルイ」っていう人は正しいんだと思います。
ただ、でもだからこそわたしなんかは彼に肩入れしちゃうんですけども。思いつめる性質なもんで(映司くんと同じく、今はそうでもないですけどね)。


極端では終わらない

しかし、さて、ではこの歪んだ物語。最後までずっとそうかっていうと、そうじゃない。ちゃんと終わっているんですよ。
その始まりこそ歪んでいるのだけれど、終わりはちゃんと爽やかになっている。ここのところが、また、平成一期の二の轍を踏んでいないところでもあります。

『オーズ』の最終的な着地点を、テーマの追及としてはぬるい、と思う人は多く、それについては理解を示すとともに、でもわたしは、ヒーローを人間としてみたときにこうなったということは、正しさというか真っ当さを感じて好きです。
結局、ひとつ思いつめたことを突き抜けきって、ヒーローになったけれど人間として帰ってきた、ということは。

『オーズ』のテーマは「欲望」です。欲して、欲して、欲しきって、それでやっと納得する。でもそこでパンクしたり極から極に走って虚無に消えるのではなく、人の世に帰ってくる。

それをして、ヒーローとして甘いというのは確かにそうなのですが。でもやっぱり、救われて、報われて欲しいじゃないですか。
そして、そういう人を見て、自分もああ振る舞えたらいいな、と思えますし。もしかしたら、一番実行可能なヒーローが映司で、だからわたしは好きなのかもしれません。


…なんか制作者側は最終的に映司が昇天するのもアリだねーって考えてたようですが、それをやっていたらいつもと同じになってたと思うよ!あぶねえ!


「表向き」がちゃんとある

しかしまあ歪んでいるものをそのまま出したら、誰がついてくるんだよ!という話になるわけで。
そこのところをちゃんと気遣ってやってた、というのも、好きなポイントです。あとこれ、『DCD』以前の諸作品には見ることのできなかった工夫ですし。
なんというか、ちゃんと「ヒーロー番組」の皮をかぶってるんですよ。猫かぶってる。平成一期はむきだしにもほどがありましたからね。
そこに気をつけて、見てもらえるように見てもらえるように、色んなところに布かぶせていたのが個人的には嬉しかったです。おお平成ライダー、成長したな!って感じで。

全体にトーンを低年齢化してポップにしていますよね。おっ、そこうまくしたな!と当時思ったものです。
曲は軽快なスカ、居候先は色が賑やかな多国籍料理店。登場人物たちの服装もカラフルで。お話も一挿話一怪人、展開もメダルの争奪戦こそあれどスローテンポで視聴者がながら見でも楽しめるようにしてある。
内在する歪みを覆い隠して単純に楽しめるようにされていた。とっつきやすくしてあるんですよね。

映司もキャラクターとして目をそらすために、「パンツに奇妙なほどこだわる」というデフォルメがされています。一応ちゃんと意味はあるんだけど、記号がここまでばっちりある主人公は珍しいと思います。でもそのおかげで、キャラとして映司を扱うことも出来るので、全体に軽くする作用があるんですね。

アンクはその記号っぷりで、そりゃ人気出るだろう!というところ。
というか、アンクは大人気を博しましたが、注意深く見ればわかる通り、彼は火野映司がヒーローになる過程で必要な要素の一つ、なんですよね。ちょっとアイテムというかマスコット的なところがある。彼に血が通い、最終的に『オーズ』がアンクの物語としての側面を備えるようになったのは、演じた三浦涼介さんの功績ですね。そのおかげで広がりが出たんだよなー。

ヒロインの比奈ちゃんは、兄の体をアンクに乗っ取られたことで物語に介入する大きな理由が設定されていますし、怪力であるということで、それほど不安なく怪物が跋扈する世界にいてもらえます。
途中参戦の伊達さんは、最優先の目的を持っていることで、共闘はすれども最後の一線を引いてきます。これは、対立はさせたいけれどもギスギスはもうさせたくない、という目的をうまくこなしている発明ですね。未熟者の後藤さんは、むしろ彼こそがオーソドックスなヒーロー志願なのかもしれません。


こんな感じで、全体にこれまでよりもデフォルメが意識されていました。
『電王』もコミカルではあったんですけど、あれ、あの謎の設定をなんとかするためのキャラクター化ですからね。そのせいか、なんか安心感がないんですよ。
この過去を踏まえた安全運転、それもまたわたしが見たかったものでもあるのです。


しかし、いまだにこの番組が大ヒットしたのが解せない。本当に表向きはちゃんといわゆる子ども向け番組であろうとしていたから、まあ深読みする人(マニア)はいてそこで評価があっても、世間的には中ヒットが適当かな、と思っていたので。
それだけ、もう、平成ライダーという枠は注目度が高い、ということなのかな。

キャラがみんな良かったよね

アンクはどこまでいってもグリード=怪人で、だから映司くんは自分をぶつけることができたのかもなあ。
相手が人間だと、どっか一歩ひいちゃうというか、手加減というか、遠慮しちゃうからさ、映司くん。

それにつけても知世子さんが好きでした。
そんでもってクスクシエは、歴代で一番好きな店っていうか、あんなの身近にあったら常連になるね。そこに映司くんや比奈ちゃんがバイトしてたら、なおさらだね。ことあるごとにコスプレさせてくれて、GJ!あれも、製作者側の趣味もあろうけどそれ以上に画面を賑やかにしたいって工夫だったと思うな。

カザリに攫われた比奈ちゃんを助けにきたところでわたしは映司くんに惚れたし、映司くんにお弁当持ってきたところでわたしは比奈ちゃんに惚れた。きみら本当にエエ人や!
アンクは…うむ、もうどっからとっかかっていいのかわかんないな。最終話付近は本当にお人形のようで、見惚れていた。
あと伊達さんはかっこよすぎるし後藤さんはほほえましすぎるし里中クンは美しすぎる。
プトティラとロストアンクは全体にホラー。こええよ!
ウヴァさんはメダル抜いていたセコさに感動しました。

個人的には、もう少しラスボスである真木博士と映司の対比をして欲しかったな、というのはありますが。
しかしその代わりにといってはなんですが、アンクとの奇妙な友情に注力し、描ききりました。
これはホント靖子節!って感じの部分で、そこをこれだけ焦点当ててやれたってのもでかい。だから完成度が高い。こーいう関係性はわたしもツボがあるんで、こんだけやりきったものを見れて嬉しかった!
わたしの趣味の話になるんですが、関係性「だけ」のお話は実はそこまで…でして。こういう大枠のある話のなかで描かれるのが好きなんですよ。でも、そうなると当たり前の話、大枠に焦点があるんで省略されちゃうんですよね。
靖子にゃん趣味全開!って感じで、良かった!

MEGAMAXはわりとなくてもいいくらいなのですが(あれはアンクファンのためのお話のような気もする。でもミハルはとても好きです)、人の世に戻って来た映司くんの姿を小説版が描いてくれてとても嬉しかったです。


そして、ひとつの集大成として 〜間違ってない平成ライダー

というのが、わたしの『オーズ』を好きな理由なんですけど。
つまりは、主観の話でしたけど。最後に、客観的にも評価しておきたいと思います。

出発点が大きく異なるヒーローを描いたということでも、斬新で、ひとつの評価になり得るとも考えていますが。
それだけでなく。『DCD』とは別の意味で平成一期の集大成だと、個人的に思っています。*1

冒頭で書きましたように、平成一期――特に白倉ライダーは問いかけをえんえんやってました。それがなんというか間違ってる感をただよわせて一つの特徴となっていました。
それはテーマ的なものだけでなく、作劇作法もです。いったい今までウケたのはどういう点なのか?というところも、ずっと「なんとなく」「たぶんここ」という風にアバウトでした。
でもいつまでも間違ってる――手探りをしつづけているというのも、どうなんだって話で。…どこかで思い切らなければならない。たとえ何かを切り捨てることになっても。
そこで、ついに『オーズ』が生まれた。
とりあえず一つ答えを出して、平成一期を整え直しきちんと一つ枠で成立させた。
つまりは、集大成として。
『オーズ』は平成一期が生み出した番組としてのおもしろさを洗練させたものと呼べるのではないでしょうか。

「間違ってない平成ライダー」と、わたしは呼んでいます。

*1:なんで『W』すっとばしてんだ、って話ですが、また別にちゃんとやります。