double standard

平成仮面ライダーへの思い入れを語ります。現在は更新停滞中。

vitalな魅力――『仮面ライダーアギト』について

宇多丸さんに刺激されたわけではないけれど(笑)。『アギト』、大好きなんですよ。

魂抜かれたのは『龍騎』なわけですが、『アギト』はまた違った意味で度肝を抜かれました。なんかすっげーテクニカルなことやってる!
海外ドラマと比較して紹介する人も多いですが、確かにそういう新鮮さがありましたね。中核に謎があり、複数の物語が同時に進行していく。先がわからないおもしろさ。「あかつき号事件」にすべてが集約していく流れにはしびれました…
そういう作りのおもしろさもズバ抜けてるんですが、でもなによりこの作品が好きなのは、全体に流れるトーン、そのバイタルなところでした。


vitalとはつまり

バイタル――vitalというのは、語源はラテン語のvitaすなわち命から来ている英単語で、主に形容詞です。
意味は、「生命の」「生命の維持に必要な」「命にかかわる」「致命的な」といった生命活動に関わったり(バイタルサインなんかは良く聞く単語だと思います)、そこから転じて「きわめて重大な」(まさに生死に関わる、ですね)、また展開して「活力に満ちた」「活気のある」「力強い」「生気を与える」「元気づける」などもあります。

わたしはこの単語に相応しい作品やキャラクターに非常に憧れを抱くのですが、『アギト』はまさしくその一つなのです。

それは単純に、「生を肯定しているから」というだけのことではないのですよ。


津上翔一―人の身で純粋であるということ

平成ライダー、主人公はいっぱいいますが、特にヒーローとして好きなのがこの津上翔一くんです。

いやあ、持論として「ヒーローやるやつは馬鹿か歪んでるかどっちか」と言ってるんですが、翔一くんは馬鹿のほう。それも、突き抜けて人間より一歩外に行きかけている馬鹿――人はそれを「純粋」とも呼びますね。
とはいえ神ならぬ肉の身である人間で「純粋」を表現しようとすると、それはたいてい誇張か理想化された人格にされてしまいます。というか、人格すらない感じになっちゃいますよね。好き/嫌いがないってことになるわけで。
で、翔一くんのなにがいいって、純粋なくせに人間味があったことです。

真魚ちゃんや太一にじゃけんにされて口をとがらせたり、きれいな女の人にはデレデレになったり。また氷川さんや北条さんなんかにとってはイラっとする人間だという風にも描かれていました。
まずもってこの描き方に驚いたんだよなあ。そういうちょっとでもネガティブな印象になりそうなものは「純粋」を表現する上ではリスクとして避けられていたものではなかったの?あるいは、そのネガティブな印象と「純粋」を両立して描くことを思いつく人は少なかったんじゃないの?
でも『アギト』では――津上翔一ではそれが成立している。まずそこが新鮮な驚きであり、好きになったポイントでありました。

そしてその純粋な青年は、野菜を育てることや住居をきれいにすることを愛しています。それはすなわち、日々を愛しているということ。生を愛しているということ。
わたしたちの誰だって、生まれたからには生を謳歌したいと思っている。でも、心が――つまり「人間らしさ」がときにそれを邪魔します。
翔一くんはその境界を突破している。だからヒーローなんだ。


評論家の宇野さんが指摘していることですが、『アギト』では過去を引きずっている人間は死ぬ傾向にあります。未来を見ていない人間は滅んでしまうんですね。それはある意味で種の淘汰といえるかもしれません。
だから『アギト』では主人公の津上翔一を中心として、生を肯定していく。見据えていく。
さて、これも立派なバイタルさではあります。でも、『アギト』はそんな生易しい作品じゃない
『アギト』のバイタルさは、この生への肯定を、全面的にバックアップしないところにあると思っています。


負の輝き、正の輝き

翔一くんは、はじめ記憶喪失者として登場しました。過去がないのに前向き(逆に言えば過去がないから前向き)という規格外の人間として。しかし物語の中盤でその記憶はよみがえり、その内容の深刻さとともに翔一くんから100%の明るさが消えます。人である以上、苦悩(=死の影)からは逃れられないのです。

また一方、映画版ではもうひとりのライダーである氷川誠――仮面ライダーになろうとする男が、我らが翔一くんを全肯定できないと吐露します。生を肯定しきることは出来ないと。そのことを、死を肯定しきる男を前に言うのです。

『アギト』の良いところは、こうやって自分たちの主張を全肯定しないこと。つねに反論を内部に抱いているところです。
そしてそれこそが『アギト』のバイタルさにつながるのです。

上記の苦悩する二人の男は、しかしそれでも最終的に生を選びます。なぜなら、やっぱり美しいものも楽しいこともそこにあるから。たとえ純度100%で捉えることができなくても、いやそれだからこそ。
負の輝きにおしつぶされそうになりながら正の輝きに手を伸ばす。そのしぶとさ、強靭さ――これこそがバイタルです。


ただ生きていくことだって出来る!

バイタルっていえば、三人の主人公のうち最後のひとり、涼もですね。
…まあ関わった女性はみんな死んじゃうんですけど…

涼はむしろ初めはものすごい死にそうな男でした。宇野さんの指摘した、過去に捉われている人間、そのまんま。異形の力を手にして過去をすべて失って、そのせいでこの先どうしたらいいのか分からない……戦う動機は「怒り」という、破滅一歩手前感まんまんでした。
でもそれが、最終決戦で叫びますからね、「俺は…不死身だ!」!あの彷徨える青年がここまでに!
それは、翔一くんを初めとするバイタルな人々と関わったことによって起こった変化なのではありますが。

涼らしいバイタルさというのは、彼が結局生きるよすがを見出さなかったことにあります。

夢とか愛する人とか、そういう寄りかかるものがなくても、生きるということを認めることができる。それは身ひとつということで、本当のところ誰よりもタフでなければいけない。それを涼は掴み取った。
…この「理由がなくても人は生きていけるし、それだって全然かまわない」ということを三人目に与えちゃうあたり、『アギト』の脚本担当である井上敏樹氏はさすがだなあと思います。「夢なんかなくたっていいんだよ、それでも生きていけるよ。生を愛することは出来るよ」って、大事なことだよなあ。それこそが本当の意味でバイタルなような気もします。


熱量のある世界

ああ、お弁当をかっこむ姿があれほど熱さを帯びている作品がほかにあるだろうか!

というわけで、メインキャラの生き様だけでなく、『アギト』のそこここに生のほとばしる熱量――バイタルさがあふれています。
小沢澄子は焼肉を食べ、嫌味を言い、研究に打ち込みますし、北条さんは北条さんでどんな流れになっても自分の信念の行く道を追いかけます。家出した真魚ちゃんを探し出すくだりで、真魚ちゃんが残した手がかりではない自分たちが見つけ出したヒントで美杉教授や翔一くんが彼女の居場所にたどりつくのは、偶然なんかよりも人の知恵を評価しているような気がしてなりません(たぶん深読みだけど。敏樹氏がミスリーディングしたかっただけなのはわかっているけど!)。

たぶんこれは脚本担当の敏樹氏が人の欠点もネガティブな表情もあますところなく描く作風だから出来たことなんだろうな、と思います。長所と短所は裏表、だから短所がちゃんと短所として存在することで、そこに生の熱量が備わるのではないでしょうか。

敏樹氏の作風は苦手なところも多いのだけれど、こういうところはやっぱりすげえなあと思います…あ、なぜか最後脚本家の話になった。


まあそんな難しいことはともかくわたしは翔一くんが超好きなんですけどね。顔にクリームつけて出動してくるんですぜ!?