double standard

平成仮面ライダーへの思い入れを語ります。現在は更新停滞中。

一周年のご挨拶 あるいは、平成ライダー第一期私的概観およびその展望について

気がつけばこのブログを始めて一年経ちました。お付き合いくださいましてありがとうございます。
小説版仮面ライダー刊行の報を聞き、どうしても黙っていられなくなって開設したわけですが、刊行終了したら書くことなくなるなあとかのん気なことを言っておりましたがおそるべしは平成ライダー。ネタが尽きません。
いまのところ、ブラーボで検索上位に来るようですね、ここ。怖くて自分では検索かけてないんですが。

ちゃんとした話でもしようかということで、平成一期について。

ものすごく間違っている

なんでこんなに好きなのか。
というのは、まあ問題意識がちょうど重なった、というのが大きいのですが。
そういえばそもそも「間違ったもの」に妙に嗅覚が発達している傾向はあります。
いわゆる奇形好きというのではなくて…より正確に言おうとするなら、正しすぎておかしい、みたいな。
目的地への最短距離は直線だけど普通その道は歩かないですよね?障害物がいっぱいあるから。それをやっちゃうような作品におもしろ味を見出してしまいます。

いわゆる白倉ライダーが好きというか共感してしまうのですが、映画仕事はともかく、白倉ライダーを見ているといつも剛速球ストライクをイメージします。とにかく、全力で全速を出してストライクを取りに行く。打たせて取るとかは考えない。で、全力なもんだからつねに勝負がギリギリなんですよね。で、まあファール(あれ)とかデッドボール(あれ)が起こることもある、と。
あるいは、ギアを一番重くした自転車の操縦。最初はフラフラして、乗ってくるとすごいスピードが出るんだけど、一歩間違うとコントロールが難しくなる。

わたしも普段ボーっとしている反動なのか本気のときはやりすぎるタイプなので、たぶんそこなんだろうなあ。かつてのモットーは「死ぬときは前のめり」でした。さすがにハイリスクすぎるので最近はなるべく平均の線で生きていくよう気をつけています。
手加減ができない、という人種はいます。

高寺ライダーも、一見すっごく真面目で、っていうか真面目すぎてヘンなんですよね。

今から思うとこの二人の変人に挟まれて日笠さん(『剣』)、武部さん(『キバ』)は、なんか振り回されていたような気がする(笑)。乗らなくていいんだよ!…しかしだからなのか終わりがまともだ。

それを考えると仕切りなおしはうまい手だったなー。
さすがに毎回dead or aliveをやってはいられないよ。ギリギリ、ヒリヒリの勝負はおもしろいけど、長く生きるには不向きですからね、マジで。
とはいえ攻めの姿勢は失わないのはすごいぜ!

ヒーロー番組という宿命

正義の味方を描かなければならない、という宿命が故に、正義にギリギリまで接近しなければならなくなった。それが、平成ライダーというシリーズが現代に生きるわたしたちに大ヒットした理由である。
というのが、まあ世間的な大まかな理解で、わたしもそれに同意です。

なんですけど、わたしはここにもうひとつ、おもしろいと感じだからこうまで行く末を見守ろうとしてしまう要素があると思っています。

それは、最終的にヒーローを肯定しなければならない、ということ。だと思っています。

勧善懲悪、というフォーマットを一度解体し、徹底的に問い直す。それ自体は平成ライダーに限らず、いろいろなところで展開されてきました。ヒーロー番組でそれをやったから目新しい、というのは、確かにそうなんですが、本当にこのシリーズのおもしろいところは、たぶんこっちなんじゃないのかな。
ヒーローを危うくしたことに評価が集まっていますが、わたしはもう一歩踏み込んで、その危うさをなんとか救おうとした足掻きに感動しちゃうんですよね。いや正直、揺さぶるっていうのはそれだけなら実は簡単なことだと思いますよ。アンチ○○というのは、実はそこまで難しいことじゃない。問題は、揺さぶった後です。

まあ、これは出来ていてこれは出来ていない、という評価は人によってあるでしょうけれど、でも、あらためて見るとどれもちゃんとヒーロー番組なんですよね。
というのは、わたしはそもそもがまったくヒーロー番組に興味がなかったもので、見ていて「どうしてここまで来たのにこっちに行かないんだろう」と考えて、考えて考えて、「あ、これはヒーロー番組だからか」となったんですよね。
だからわたしは平成ライダーが壊したとかアンチだとかはまったく思わない。ただ、着地は考えずに大ジャンプする必死さがほかにないもので、その不安定さがこれまでの子ども向けヒーロー番組と一線を画すものになったんだと思う。
なんで毎回あんなに捨て身なんだよ!

子ども向け、とはなにか

主な視聴者は未就学児なんだから、もっとオーソドックスにすればいいじゃないか、という意見も、そうだよなあと思います。
けれども、対象が誰であれ作るんなら本気で、という姿勢も間違っていないとわたしは思っています。

大好きではあった。けれど、結末が…そんな、子どものころはいまいち分からなかったり不満だったアニメや物語を、大人になってからふと見ると、理解が及ぶことがままあります。
そういう体験をわたしは何回もしているから、子どもには難しすぎるメッセージだから止めた方がいい、という考えにはうなずけないのです。そのとき感じた不満をずっと覚えていて、それがある日氷解したとき、なんというか、自分が大人になった、とそう思ったことがあるから。同時に、当時の作り手に敬意を抱いたから。

また、今、自分が大人として作品を見るとき、やっぱり作り手の本気がうかがえると感動するし、それによって勇気を与えられます。なんであれ、良い物を見ると感銘を受けるものじゃないですか。人が作ってるんですよ、あれ。

まあそれで大人だけ盛り上がっちゃったものが出来上がることもあるわけですが。けどそれを言ったら子ども向けを意識しすぎて子どもだましになることもありますし、まあリスクのないものはない、ということで。

「応用編」の二期。そして来るべき三期へ向けて

10年の総括たる『DCD』を経て、現在平成ライダーはセカンドステージに移っています。それももう、5作目で折り返し地点。気がつけば遠いところまできていますね。

いわゆる二期は、一期の挑戦と反省を踏まえて、安定させた足場の上でどこまで羽を広げられるか、というような芸の見せ合いどころのような感じを受けています。
それを一期のあの無謀さを思い出して物足りなく思う気持ちもないわけではありませんが、わたしはすでにマニアックなところに来てしまっているので、この「応用編」もとても楽しく見ています。どこまで自由度を広げられるかなーという期待を込めて。まあ、なんせ、止まったら死ぬ魚みたいなもんですからね、平成ライダーって。

それでもまだ、不満が残るというところは、来るべき三期に期待を持っています。
というのは、一期を見て育った人たちがクリエイターとして現われるはずなのが三期だからです。
愛と不満を持って叩きつけてくる人がきっと出てくる――そのときまた、平成ライダーは爆発するのではなかろうか。
じゃ、二期はつなぎかというとそうではない。先ほども述べましたように、どこまでやれるか、という別の挑戦の形がここにはあります。

逆に言えば三期の方が不安かもしれません。二期はまだやれること・やることがあるから。三期で爆発する人材が来ないと、怖いかな。でもまあそれは、未来のお話。それに二期だって、停滞しないとも限らないし。ちょっと危ういところもあるからねー。

とはいえ、ソレをやらなくちゃいけないわけでもないし。わたしが乗れない方向に舵をきってもそれはそれ。道が分かれただけのこと。ただ、長くは続いて欲しいんですよね。続いていればなにかが起こるチャンスがあるし、そのなにかを生み出せるそれだけの土壌を平成一期は生み出しているのだから。
ちゅうわけで、このまま立ち止まらなければわたしはまだまだついていくよ!平成ライダー