double standard

平成仮面ライダーへの思い入れを語ります。現在は更新停滞中。

第三の可能性として〜仮面ライダーダブル

『DCD』で平成ライダー前期10年を見事に破壊した後、次世代第一作として登場したのが『仮面ライダーダブル』でした。
第一期10年を見通して、ああ平成ライダーらしいな、総決算だな、と感じたのはこの次の『オーズ』ですが、その前のこの『ダブル』はまさに新時代の幕開けでした。

『ダブル』のその最大の魅力は、純粋にエンターテインメントだったことでしょう。
平成ライダーでも王道のエンタメが可能なんだなあ、というのが、わたしにとっての『ダブル』の発見でした。
平成ライダーのおもしろみは逸脱の上に乗っかっているとばかり思っていたので。おお、ついに平成ライダーも地に足着いたかと感慨深かったのです。

価値観も物語も複雑に入り組みすぎたこれまでとは違い、勧善懲悪をベースとしたすっきりとした作風で(悪い奴は悪い奴)、いろんな意味でファンを驚かせ、また、中にはやっと純粋に楽しめるヒーロー番組が出てきたと喜んだ向きも多かったと思われるものでした。

まさしく平成一期が成せなかったことがそこにあったわけです。しかし、一足飛びにエンタメの王道に着地したのかというとそうではなく、実のところわたしが『ダブル』を評価するのは上記のゆえよりもこっちのためだったりするのです。


正義とは美学

平成ライダー第一期は価値観の動乱の過程だったといっても過言ではないかもしれません。
正義は人の数だけあり、たった一つではない。ならばたった一つを描かなければならないヒーロー番組はなにを選択したらいいのか。
ときには林立させ、ときには相対させ、ときには開き直り。答えを出すというよりは、答えを探す過程を真摯にさらけだしていたのが平成ライダーらしさだったといえるのかもしれません。
とはいえいつまでも迷っているわけには行かず、平成ライダーは『DCD』を経て一旦自分たちを落ち着けようとしました。そこに『ダブル』がきたわけです。

『ダブル』の最大の特徴は二つあり、一つは主人公が二人いること。もう一つが、作品テーマが「ハードボイルド」であることでした。
主人公二人は性質こそ相反しますが、共通に師とあおぐ人物を持ち、その人物の掲げる掟がハードボイルド…つまり実現されるべき正しさ、だったわけです。
この、主人公達が信奉する掟が「ハードボイルド」だったことに、わたしはなるほどな!と強く思ったのでした。

というのは、ハードボイルドとは結局のところ、突き詰めていってしまえば美学だからです。美学でしかない。その中に倫理や正義が含まれていたとしても、最終的に個人の思想なのです。普遍ではないのです。

正義は人それぞれ。では、自分が貫こうとするこれは、他者を押しつぶしていいのか?という葛藤がずっと根底にあったのが平成ライダー(というか、白倉ライダー)でした。それに対するアンサーが、「これが俺の美学だから」というのは、行き着いてるぜ!と思ったのです。

もっとも、『ダブル』のプロデューサーである塚田さんがそこまで考えてテーマを設定したとは思いませんが。単純に趣味だよね、あれ。なんせ戦隊仕事の第一作が刑事モノだもんね。

ただ、こういうミラクルが起こるのが平成ライダーが「持っている」ゆえんではあります。


第三の可能性として

ヒーロー側を無条件に正義と定義つけするのか、それとも正義とは相対的なものであるというところを貫くのか。
というような二項対立気味だったところに『ダブル』は三つ目の選択肢を出した、ともいえるのではないか、というのがわたしの考えです。

『ダブル』はぎりぎり勧善懲悪じゃないんだと思うんですよ。
いや、正直ちょっとわたしなんかは見ていて居心地が悪いことも多いんですけど。やっぱりどこか主人公側が特権的なところがあるから。
制作側も勧善懲悪のつもりで作っていたところはあると思う。なんですけど、選んだ要素がこの第三の道をとらせた。
それは、この美学というのもあれば、私立探偵というアウトローに近い存在性、それから魔少年フィリップが配置されたってのが大きいと思う。正義の光を少し揺らがせてくれるんですよ。

たぶん塚田さんは明快な勧善懲悪の人だと思うんですけど、この『ダブル』ではやっぱりさすがにすごく一期からの流れを気にして、ちょいダークにしようとした気配を感じるんですよ。それが結果として『ダブル』をぎりぎり勧善懲悪にさせなかったんじゃないか、と。


…ただ、そこんとこの認識のズレが後半のあの生煮えな感じにつながったのかもしれないけれども。
このぎりぎりさがとある要因によって弛緩しちゃったんですよねえ、もったいないことに。


美学もやっぱり一つじゃない

そうなんですよねー。なんか消化不良というか。
多くの人が指摘している通り、中盤以降テーマはおろかダブル主人公の片割れ翔太郎にはほとんどスポットが当たらなくなり、園咲家の内輪もめの話で終わってしまったのは残念です。

繰り返しますが、美学は正義ではないのです。だから、勧善懲悪にはならない。
なんだけど、結局、途中から美学=正義の錯覚が起こってしまった。
それはなぜというと――作中で語られる美学の大本であるおやっさんの存在がどんどん大きくなってしまったから。

途中からおやっさんが絶対的な指標になっちゃってるんですよ。するとおやっさん=正義になり、そしてそうすると、おやっさんの美学」と=ではない翔太郎が光らなくなっちゃうんですよ。そんでもって、緊張感が失われて後半がぐでぐでになったんじゃないか、と。

翔太郎はハードボイルドならぬハーフボイルド、というのがまず設定にあります。でも、むしろそこがいい、という話だったはずなんです。
なんだけどいつの間にか、ハーフボイルド=未熟、にされていた。ハードボイルド=おやっさんがかっこよすぎたから。ああなれない翔ちゃんは愛嬌があってかわいいね、で終わってしまった。

いやそうじゃないだろうと。ハーフボイルドという美学をこそ語らねばならなかったんじゃないのか、と。
ハードボイルド=固ゆでの未完成版がハーフボイルド=半熟じゃないと思うんですよ。半熟は半熟でおいしい料理じゃないかよ、と。未熟ではないんじゃないの?と。

大正義=おやっさん、が成立してしまったことで、『ダブル』の枠はゆるんじゃったわけです。
そういうわけで、評価はするけど、惜しいな、と思う作品ではあります、『ダブル』。

なんかわたしフィリップについては全く言及していませんが、いいんだよあいつは。物語ちゃんとあるから。


可能性は可能性

…それでもね。
『ダブル』で好きなお話は、第6話です。
街を愛し、街の人間を守る、を自分の美学とした翔太郎は、だからこそ心情的には許しがたい犯人も助ける。助けながら、悔しくて泣く。泣いちゃうところがハーフボイルドたるゆえんであり、『ダブル』のテーマが現されていて好きです。
というか、この話があるから、わたしの中で可が出ている節がある。


よその街から来た別の美学=照井との比較も結局ほとんどされなかったし。まあそれをするといつもの平成ライダーではありますが、やっぱりちょっと勿体なかったなあ。


まあ、でもそういうところもひっくるめて、『ダブル』って可能性を持っている作品だと思うんですよね。『ダブル』は『ダブル』でいいとして、さらに発展させられそうなところがいくつもある。
この美学という第三の正義を突き詰めた話も、いつかどこかで見たいものです。