double standard

平成仮面ライダーへの思い入れを語ります。現在は更新停滞中。

ユリイカ9月臨時増刊号 総特集平成仮面ライダー 3−1.各作品論 〜響鬼

一昔前のものを今また話題にするって言うことは、つまりソレに今見るべき意味があるってことを主張するということです。
その行為のひとつの側面には、間違いなくその対象の「活性化」があります。
こじつけに陥らず、現代の人々の興味に即した魅力を提示して、再評価を促せるか?論者の腕のみせどころであります。


クウガ』の未来、『響鬼』の…

んで、海老原豊仮面ライダークウガ 意味としての「サムズアップ」から存在としての「いいね!」へ」、おもしろかった!
この本の土台は宇野常寛さんの先の二つの著書にあって、その中で宇野さんはいわゆる白倉ライダーを高く評価し位置づけている一方、『クウガ』は相対的に低く捉えています。世間の風潮的にも、『クウガ』は名作だが今さら語るほどには…といった扱いが見受けられます。
クウガ』はもう今見られるべき作品ではないのか?否!
というわけで、海老原さんはクウガグロンギのゲゲルのルールを見つけ出す過程を異種族間のコミュニケーションと捉え、テーマのひとつである「サムズアップ」を現代のFacebookの「いいね!」ボタンに見立て互いを承認しあう時代をすでに内包していたとして、新たに『クウガ』を読み直すわけですが、これがひじょーに素晴らしい。
この結論、いくらなんでも!とも思う一方、ここまで引っ張ってきたか!と唸ります。

わたしがこの論にあんまり反発を抱かずに、なるほどそう読むことも可能だな!と思っちゃえるのは、ちゃんとずっと『クウガ』から離れないで考えをつなげているから。

飛躍は最後の「サムズアップ」=「いいね!」だけくらいだと思いますし、この2012年(発行年)に『クウガ』を今一度よみがえらせようっていうんだからそのくらいの飛躍は欲しいし、そこでFacebookにつなげるというのはナイスチョイス!と思うのです。

これを「いやそんなことねーだろ」というのは簡単です。でも、大事なのはこれが本当にそうであるかどうかではないのです。そう見直せば今もう一度見る意味が生まれる、そこが大事なのです。そしてその主張がどれだけ説得力を持ち得るか――わたしはこの論は「アリ」と見ました



それに対して逆にがっかりなのが、東雅夫仮面ライダー響鬼 響鬼と響き交わした日々に」です。
響鬼』の製作過程でいろいろあったこと、路線変更を受けて東さんが中心となって前期『響鬼』に意味を持たせるためのいろいろな試みがあったこと、などは聞き知っていますし本を手に取ったこともあります。
だからこそ、『響鬼』変更後の路線が結果的に支持されてしまった今日、『響鬼』前半の父と子のモデルケースを現代にそぐわないとする宇野論(宇野さん以外にも指摘していますが)が支配的な今日、東さんには『響鬼』を持ち上げて欲しかった。「今こんな時代だからこそ『響鬼』を見るんだよ!」くらいぶち上げて欲しかった。
それを差し引いてもこの東さんの論は論というにはあまりに感傷的で、『響鬼』が失われてしまったことだけをただ悲しんでいるようで、読んでて全然おもしろくなかった。未来がないです、この論には。
わたしはどちらかというと宇野論に首肯するし、好きなのも白倉ライダーが主です。でもだからこそ現代のための『響鬼』論が読みたかった。ほかの論がみなすべて戦っていて刺激的だったので、余計に残念です。



『アギト』と『555』、その豊穣

一口に批評といっても角度はいっぱいあるわけです。
というわけでたぶんすでにさまざまに語られつくしているであろう初期作について、どうアプローチするのかなと思っていたら作劇論できました!これは嬉しい!

藤田直哉仮面ライダーアギト 違和感の勝利」堺三保仮面ライダー555 多重プロットドラマとしての『仮面ライダー555』」はそれぞれ、映像面からの『アギト』論とシナリオライティング面からの『555』論です。
これは今一度の活性化というよりは、この作品のおもしろさについてまだ語れる要素がほかにあるよという話。この角度からの論がすでにあったのかはわからないんですが(リアルタイムじゃないもんで)、たぶんあんまりされなかったんじゃなかろうか。意味があります。それにだいたい今さら初期作のテーマ性なんか論じられてもおなかいっぱいですからね。宇野さんの論がすでにあるし。

特にわたしは堺さんのが楽しかった。敏樹氏のシナリオライティングは、『555』だけじゃなく『アギト』も『キバ』も、すっげえ変わったことをよくやるなーとずっと感心していたので、こうして正面から取り上げられて嬉しい。読みたかったんだよこういうの
堺さんが最後に締めたように、これが「変わったこと」で終わらずに続くものが現われてくれたらもっと嬉しい。そのためにこうして真っ向から語られておく必要っていうのはやっぱりあると思います。



物語に応えるということ――『龍騎

その意味でちょっとギリギリだったのが村上裕一「仮面ライダー龍騎 死者の夢、鏡のある小部屋」
これは龍騎』ファンによる、『龍騎』ファンのための、『龍騎』の感想文です。尖ってはいないけれど、美しい。

わたしは『龍騎』のあのラストで何が泣いたって、それまでもさんざん泣いたのですが、でもしかし決定的に悲しかったのは、写真に写っていた優衣ちゃんが子どもの優衣ちゃんだったことです。
あのラストは解釈は人それぞれに任せられていますが、とにかく、ライダーバトルが行われなかった世界であることは間違いない。行われなかったから、真司や蓮、手塚、彼ら13人の仮面ライダーが出会うこともなく、互いに関係し、つばぜりあって生きたあの日々はなかったことになっている。それを惜しいという人もいるでしょう。
けれど、彼らには可能性があります。バトルはなくとも、また出会い、互いに影響しあう可能性が。
しかし優衣ちゃんにはそれがない。子どものままで死ぬことを選んだということは、結局、大人の優衣ちゃんは存在しないということなのです。
わたしはその喪失がとてつもなくひどく感じられて、でもそれは彼女が選んだことだから、ただ悲しくて、泣いたのです。

龍騎』を見終わったあと、どうにかして咀嚼したくて、いろいろ関連本を読んだり考えたりしましたが、そのとき、この村上さんの文章を読みたかったなと思います。
読み始めたとき、いまさらな話の気もしたのですが、最後まで読み終えてわたしはちょっと泣きました。涙は流してないけど。

全13本の論の中でも異色作。ぜひ龍騎』を全話見終わった後に読んでもらいたい一本です。…逆に『龍騎』に思い入れがないと「よくわからん」で終わるな、これは。



『剣』、その可能性

さて13本もある中で個人的にお気に入りなのが真実一郎「仮面ライダー剣 ヒーローとして働くということ」です。語り口の砕け具合も読み物としておもしろい。
『剣』が持っていた職業ライダーという設定の可能性についての詳細な検討もすばらしいけれど、なんでダメだったのかというのもかなり突っ込んでいて良し。大上段に語られるのが苦手な人にも読みやすいと思います。

正直わたしはずっと、「職業ライダー」って響きがおもしろいだけでそれを描く必然性がよくわかっていなかった。たぶんだけど、制作者側もそうだったんじゃなかろうか。
けれど時代の機を見るに敏なのがテレビ制作で、理解しないまでも嗅ぎつけていたこの題材に本当はすごく意味があったんだってことを真実さん(この呼び方妙な具合だなー)は言う。この題材が活かしきれれば傑作になっていたと。
とまれ、もう「「仕事」を描きたいのであれば、まず「組織」をきちんと描くべきだったのだ。」という指摘がすべてを物語っていますが。
この論はある意味で、どうして『剣』が迷走したのか、という問いに対する答えのような気がします。

「職業ライダー」としてみた場合であっても剣崎は超越者なのである、という考察はかなりおもしろいです。おー、なるほどなー!

真実一郎さん、変わった筆名だなー。評論界で同人的活動をしているのかしら?とか思ってたらこれを読んだ後日、新書を出してらっしゃるのを見つけました。この名前と肩書きでいくのか!(肩書きのところが「サラリーマン」になってる。ほかの人は「文化批評」とかになってるのに)