double standard

平成仮面ライダーへの思い入れを語ります。現在は更新停滞中。

ユリイカ9月臨時増刊号 総特集平成仮面ライダー 2.通論

女子にとっての仮面ライダー

よく平成ライダーの視聴者における女性像は、いわゆる「腐女子」か、「イケメン好き」の一言で片付けられてしまう傾向がありますが、たぶんそれほど少なくない割合でヒーローに感情移入して視聴している女性ってのは多いと思うんですよ。わたしですか?後者ですね!

筒井春香「女の子はライダーになれたのか」はその名の通り女の子が仮面ライダーになる可能性をさぐる論考です。基本的には女の子と仮面ライダーの論なんですけど、当事者である女の子だけの問題に留まらない可能性の示唆にまで及んでいて読み応えがあります。

女の子にはセーラームーンプリキュアがある。けれど、そこで取りこぼされるものはないか、仮面ライダーというものになることで達成されるなにものかがあるのではないか、という話なんですけど。
ジェンダー論になってないのが好感度高し。いや大事な話ですけど、したいのはそこじゃねえっていっつもなるので。
仮面ライダーとは結局、境界線上の存在なわけで。一方、セーラームーンプリキュアはまったくポジティブな存在です。あるいは、ここでは述べられていませんが、戦隊の女戦士も。わたしや、きっとほかのファンもほかでもない仮面ライダーに惹かれるのは、それが孤独を持っているからです。特に平成ライダーはわりとよくありがちなのとは違ってその孤独さがロマンチシズムにならず、問題に一人で向き合えと追い込む要素になっているところがあります。
なぜプリキュアではいけないの?と訊かれたならわたしはこう答えます。「そんなポジティブな存在になりたいわけじゃない」。ギリギリに追い込まれてそれでも踏みとどまる平成の仮面ライダーたちにわたしは感情移入しているのです。託すものがあるのです。*1

筒井さんが指摘されている通り、女性はまだ仮面ライダーになれていません。変身できても、単発の存在かあるいはすぐに死ぬ。境界線上の存在として、まだ生ききっていないのです。

それでも仮面ライダーは男子のものだ、別にそんなことを考えなくても良いではないか、という反発もありましょう。
しかし、『W』以降、仮面ライダーは孤高さを減じています。境界線上の存在さが希薄になって、ポジティブな要素の方が強くなっている仮面ライダーいまいちどその存在を問い直し、見直すのに、果たしてこの問題は意味のないものか否か?

さて批評っていうのは一種の理論武装であって、問題の炙り出しをする一方で、ここまで論が立っちゃったら無視できないでしょう?という突き付けでもある。だからうまく出来ないとただの牽強付会、トンデモ論になっちゃってもともとの意図は正しく可能性を秘めているものがケチがついて以降取り上げられ難くなってしまう。諸刃の剣であるわけです。
「女の子がライダーになる」というお題は、雑にやると本来の視聴層である男性から総スカンを食らう可能性があるわけで、この筒井氏の論はそこは見事にクリアしていると思います。…ってわたしは女性ですから、実際のところ男性から見てどうだったのでしょう?わたしは良い論だと思うのですが。



男子にとっての仮面ライダー

一方こちらは本来の視聴者層である男の子にとっての仮面ライダー論。ポイントは「作品」ではなく「番組」として扱っているところ。つまり、セールスとかの要素も込みってことです。

ひこ・田中「社会の様変わりを反映した平成仮面ライダーシリーズ」は、ライダーについて論じてはいるのですが、その射程は子ども番組、ひいては児童文学――子どもと物語のかかわりまで伸びている。「なんだかんだ言っても仮面ライダーは子どものものだよ」とか「平成ライダーが子どもにどう受け入れられているのか」を気にする人には一助になると思います。

ひこさんの指摘内容でなるほどと思うのは、作品の内容は社会を反映していると認めても、それが実際の子どもに受けたかどうかは別問題であり、平成ライダーの大きなポイントはむしろそういった試みをした番組がセールス的にも成功を収めたという点であるというところです。
なぜそんなことになったかというと、複雑な内容の平成ライダーを一緒に見ていた大人が禁止しなかったから(結局のところね)。
それはつまり大人と子どもの関係性がかつてのそれと変化しているということの反映であり、それをして平成ライダーは重要な作品となり得るとひこさんは評価するわけです。
受容のされ方に注目する、と。
また、大人というものそのもの、子どもというものそのものもまた変化しており、やはりその反映として平成ライダーを重要と位置づけておられます。

ひこ・田中さんは現役の児童文学作家です。子どもが実際どう捉えているのかなんて、彼ら自身が言語化できない以上大人は結局外野から想像をめぐらせるしかないのですが、ひこさんは職業柄そこはかなり深く追ってらっしゃいます。この寄稿の人選も適当ではないはずで、というのはひこ・田中さんはすでにその著書『ふしぎなふしぎな子どもの物語』(2011)で平成ライダーに触れておられるからです。『ユリイカ』はちゃんと拾ってくるな。
なおこの著書は平成ライダーが主というわけではなく子ども向け文化全般が対象になっているので、興味のある方にはオススメ。新書だし。


そのひこさんの論を裏付けるというか似たことを別アプローチで証明した形になっているのが泉信行「拡散から求心へ」。あわせて読んでいただきたい。
まただんだん丸く収まるようになってきた『W』以降のライダーについて、この本でも多くの論者が指摘したり分析したりしているのですが、この泉さんのはより具体的に迫っているので注目だと思います。



仮面ライダーとして

「平成仮面ライダー」の総特集本なのですからして、そりゃ話は平成一色になるわけですが、血統としては昭和ライダーがやっぱり大元にある。
ってんでその辺とつなげて論じているものもあるのですが、いかんせんわたしから見ると論が弱い。

若林幹夫「面影のない街の神話劇」は作劇が要請する平成ライダー特有の場所に、昭和ライダーと対比させつつ意味を与えようとする試みですが、ちょっと無理が強いような気がするなあ。なんでだろ。題材は悪くないと思うんだけどなあ。

門林岳史「歪んだ仮面」は正直、いまさらこれをする意義がわからない。ライダーとキカイダーに見る人間性議論なんて、もうとっくにたくさん語られつくしているのではないのですか。ましてや、平成ライダーの時代においては、さらにそこに新しい意味が見出されるか、平成ライダーも含めて議論されてしかるべきではないのですか。


わたしは昭和ライダーをまったく知らない世代だし人間ですけれども。だからこそ、平成と昭和をからめる回路を論として出されたら刺激的だと思うし、昭和ライダーに新たな活性を与えようという試みがあってもいいと思うのですが。むーん。



from2000 to…

そして切通理作「はじまりはいつも突然」平成ライダーを振り返って。
というか切通さんの評論はいつもちょっと癖が強いというか、わたしとしては強引なところも感じて苦笑いすることも多いのですが、まあ平成ライダーを通しておさらいするのにさすがコンパクトにまとめきっておられます。
その分、なにか大きなことを論じることはなく、ちょっとつまんないんですけど(お前は贅沢だな)。
けれど個々の作品については「えー、そうかなー」とか言いつつ、以下の文言には深く首肯するところであります。

 そこには思わず顔をほころばせると同時に、本当に「いま」しかないと思っていた中で、ひりひりする、けれどスリリングだった、根なし草のあの10年こそが、振り返ってみれば「なつかしい」気もするのである。

この文章は、『DCD』後を経て明るく楽しい番組となった『フォーゼ』を受けてのものです。
ずっと平成ライダーを見てきた人は、みんなこんな気持ちなんじゃないかな(わたしは途中からですけれど)。それをこういう風に言葉にするのも、批評の仕事であります。

*1:近年では深夜帯の「魔法少女モノ」があるじゃないかと反論されそうですが。しかし結局アレらはヒーローにそこまで肉薄する必要のない/しない作品群なのであんまりソソられませんです