double standard

平成仮面ライダーへの思い入れを語ります。現在は更新停滞中。

ゆとり世代のヒーロー 〜『仮面ライダー鎧武』論

なぜあなたは紘汰に神経を逆撫でされるのか

紘汰って、とんでもなく若造でしたねえ。さぞやイラついた方も多かったことでしょう。
常識に対し飲み込みが悪く、年齢のわりに無邪気。そして、他者と競うくらいならあっさりと放棄しようとする傲慢さ。
でも、そこにわたしは、希望を見るんです。
だって、これ、その辺にいる若者そのものだから!

言い訳のないヒーロー

理想像としての正義の味方は、この現代において創造しにくくなっている。なぜなら、何が正義なのか、決めきることはもはや不可能だから。
となると、ヒーローを描こうとすると、人助けをしなければならないような個人的な理由を付けてやったり、振り回す正義の有効範囲を決めたりと、言ってしまえばエクスキューズが必要になってくるわけです。その辺のスタッフの奮闘ぶりが、ある意味でこの平成ライダー二期の特徴でもありました。

ところが、『鎧武』には、紘汰にはそれがない。

裕也を殺してしまったことは動機のひとつではありますが、彼が贖罪のために戦ったわけではないことは、作中で明らかにされています。紘汰は、友人の死を、自分の過ちを、”なかったこと”にしないために前に進むことを決意したのです。

これはある意味で、非常にポジティブな理由です。

だからこそ、気に入らない人がいるのだろうと推測されるのですが。
でも、このポジティブさこそ――痛みに損なわれない生命力こそ――これまでの平成ライダーに欠けていたものではないのでしょうか。そして、それこそが、この現代の閉塞をこじ開けるひとつの鍵になるのではないのでしょうか。

なお、このポジティブさにはヒーローの孤高さが減じる、という危険性もあります。しかし、『鎧武』はつねにその背負う傷が生々しく、重いものでした。結局、その傷を背負うことができるのは本人ただ一人、ということが描かれていました。。
昭和のヒーローは悲劇性に浪漫を与えることで乗り切ろうとしました。平成一期は、悲劇を自分のドラマとして受け止めることでうちのめされることから耐え切りました。
そして、これまでの平成二期は人と繋がることで強靭さを確保しました。

では、『鎧武』は。
悲劇を悲劇にしきらない、という手段でもって、人々の平和というとてつもなく重いものを背負いきることを可能にしているのです。

普通の人は英雄にはなれないの?

普通の人、とはなんでしょう?
わたしが考えるに、特に過去に人を救えなかったトラウマがあるとか、並外れた精神力を持っているとか、そういうのがとりあえず今のところない人のことです。
等身大の人間であるとされた『龍騎』の真司や『電王』の良太郎でさえ、第1話で危険に立ち向かう勇気が描かれ、彼らがいずれヒーローになり得る人間であることが説明されました。
僕らにできないことをやってくれる。境界線を越えることができる、そういう人がヒーロー足りえるわけですが。
『ウィザード』の晴人が登場して、「あれ?これ、なんの理由も強さもないヒーローじゃね?」とびっくりしたその次に、この『鎧武』が始まりました。

紘汰は、普通です。彼はなんの決意も持たないまま戦いの力を手に入れ、初めのうちははしゃぎまわってすらいました。その後も確たるものを得ることなく悪意に、暴力に、振り回され続けます。
なんたる凡庸さ。
だけど、紘汰がただの凡人ではなかった要素がひとつだけあるのです。そしてそれが、紘汰を――つまり普通の人をヒーローへと押し上げていくのです。

疑問に対し、他人の答えに安住しない、という点です。

ゆとり世代という希望

ゆとり世代、という世代区分が登場して気がつけばもう10年ほどになります。

広義では、小中学校において2002年度、高等学校において2003年度に施行された学習指導要領(いわゆるゆとり教育)で育った世代(1987年4月2日-2004年4月1日生まれ)。
狭義では、ゆとり教育を受けた世代のうち、一定の共通した特徴をもつとされる世代(1987年4月2日 - 1996年4月1日生まれ)(1988年-2000年生まれ)。

[wikipediaより引用]

とはいえ、まあ、厳密な話などそれほど重要ではありません。だいたいにおいて、一括りにしようというのが乱暴な話なわけですから。
浸透するだけあって、この世代区分にはそれなりの説得力があり、彼らが持っているとされる特徴が冒頭で述べたものになります。
上の世代の話を聞かない。空気と言う名の常識をわきまえない。…まあどの世代も若いころに言われてきたことではありますが。最大の、これまでの違いといえば、上の世代との断絶がある、ということでしょうか。
自分たちがよいと思うことは、自分たちで決める。他人と争うくらいなら協力して物事を解決する。それは、生ぬるくはあります。が……一方で自由さに満ちています。
グローバル化も手伝って、上下関係も、国境すら問題にせず、どこにでも打って出られる肝の太さ

ひるがえって、紘汰の武器もそれではなかったか。

大人の忠告も、常識も、正しいかもしれないけどなんとなく納得できない。この、自分自身が抱いてしまった疑問に、紘汰は動かされていきます。頭ですら納得していない。自分の感覚がすべて。それは、一方で若さという無知の愚かさではありますが。
でも、紘汰は納得しないからこそ、前に進む。ただ納得できないといってぶーたれるのでもなく、常識を小ばかにして自分の世界に閉じこもるのではなく、外の世界に身体ごとぶつかっていく。

ぶつかっても、すぐには答えは得られない。けれど、そもそも自分が納得するために行動している紘汰は、そんなことでは困らない。

ゆとり世代――若い人の中には、打たれ弱く、答えがすぐに得られないとさっさと諦めてしまう人も多くいますが。それは結局、本気で答えを求めていないから。紘汰が唯一ヒーローとしての資格を持っているといえるなら、ここです。彼は本気だ。本気で納得したいからこそ、世界という巨大なものに立ち向かえる
世界に対し本気で疑問を持てる、というのは、すごいことですよ、本当に。

紘汰は、これまでのヒーローとは決定的に違う。そして、ゆえにこそ新しく、今日的である。
それは、誰の理想も背負っていないヒーローである、ということ。

NEXT LEVEL

それにしても、『鎧武』を一口に「成長物語」で片付けていいのかなあ?
そんなことを見ていて思うのは、だって、紘汰はどこまでいっても紘汰でしかなかったから。

『鎧武』は昨今とても珍しい構成をした作品でした。
話が進むに連れてステージが変わっていく。
ステージと言うのは、足場です。足場が変われば、景色も変わる。
見えてくるものも変わる。そうなれば、考えるべきことも自ずと変わっていく。

それは果たして、上昇=成長なのか?
なにかゴールがあって進んでいっているといえるのか?

そうじゃない。どこにもゴールなんてない。実際、46話で紘汰が出した物語の結論は、さらなるステージの選択でした。
紘汰は適応していったのではないか、とわたしは考えます。
新しいステージが目の前にあらわれる度に。紘汰は、抱えていた主張に新しい要素を加えてそのステージを乗りこなしていったのだ、と。
自身は坐したままステージを逆に操ろうとしたミッチ。己をどこまでも貫こうとある意味硬直していた戒斗。彼らを抑えて紘汰が最後の勝者となりえたのは、その柔軟さゆえではないのか、と。

そう、柔軟。ゆとり世代の自由さ。

『鎧武』が打ち出したのは「変身」というキーワードでした。
若者から大人への「変身」。以前の自分とは違う自分への「変身」。
成長という言葉の持つ温かみはそこにはない。急激で過酷な加圧。
痛烈な通過儀礼を経て、生き残った者だけが次の段階へ移ることができるのです。

仮面ライダー鎧武』に見る格差社会

『鎧武』が始まったころ、わたしは「『仮面ライダー鎧武』に見る格差社会」というネタをタイトルだけ思いついて呟きました。それについて、なんと論考を寄稿していただいたことがありました。(記事はこちら
ユグドラシル社とビートライダーズを対比させて格差社会の構図をそこに見ようという試みでした。以下引用してみます。

現実世界で考えると、例えば大型家電量販店が地方に出店したことで、地元で個人営業していた電気屋が駆逐される、といった事例が当てはまるだろう。奪われたことで、戒斗は「力」を、舞は「居場所」を求めるようになった。上述の電気屋の例で言えば、戒斗は家電量販店グループをぶっ潰そうとしているし、舞は経営は厳しくなってきたけど地域の人同士で協力、助け合っていこうよと訴えかけているというスタンス、というわけである。

ここまで「大人と子供」というキーワードで論を進めてきたが、『鎧武』はその対立構造のみで終わらない。外側からの脅威、「ヘルヘイムの森」が存在する。先述の電気屋の例でいくと、外国のインターネットによる通信販売企業が台頭し、個人営業店だけではなく大型家電量販店も客を取られてしまった、といったところか。国際化、グローバル化が進む中、諸外国に対抗するためには支配層と被支配層が格差を乗り越え手を組まなければ立ち向かえないであろう。

わたしは、この理解は結局最後まで適用できていたと思います。

ただ一つ付け加えるなら、紘汰は攻め来る外敵に対し、旧世界ばかりに軸を置いていなかったということ。

境界線を飛び越えて、言うなれば国籍など関係なく活躍する個人企業のように、彼はすべてを突破する。そして、しかし、過去を完全に捨てることはしない。例えて言えば、個人企業として収益をあげる一方で、そもそもの籍をおく本国に仕送りをするようなもの。

紘汰はなにも背負いはしない。突破していく。後に勇気と希望を残して。

この進化は、ちょっと『ブレイド』の剣崎に似ています。しかし、剣崎が断絶を背負ってしまったのとは違い、紘汰は旧来の世界とのつながりを保ち続けている。帰ってこれるしね。
ブレイド』は約10年前の作品です。時代が少し、変わったのだな、と思います。

子どもたちに見せるための番組としての『鎧武』

紘汰は柔軟で自由だった。だから、誰もたどりつけないところまで極まっていくことができた。
自らを犠牲とは思わない、愚かといえるほどの希望を信じる心。それは想像を絶する孤独と過酷さを背負っているのだけれど。潰されない。

平成ライダー15作目。二期に入って、もう、再生産だけが続いていくのかと思いながら、それでも期待していていました。それをついに今年、見ることができた。そのことに、わたしは感動しています。
限りなく、とてつもなく、「今」のヒーロー。
今、語られるべきヒーロー。

それは、ただ背中を見送るだけのヒーローとは違います。
白黒はっきりつけてくれないがゆえに、どうお手本にすればいいのかわからない、という人もいると思います。
でも、わたしは、『鎧武』は充分お手本になるお話だったと思います。

いきなり状況が変わっても。自分であることを忘れず、恐れず、信じて――何物にも囚われることなくのびやかに新しい世界へ飛び込んでいけ。紘汰がそれをなしたように。
そして、そうすることで人を励ますんだ。


ゆとり世代は、上の世代から批判を受けることが多くあります。
確かに、わたしも自分より若い人にイラつくことはある。多々ある。でも。
大人が望むようなヒーローになんか、ならなくたっていいんだよ!