double standard

平成仮面ライダーへの思い入れを語ります。現在は更新停滞中。

ユリイカ9月臨時増刊号 総特集平成仮面ライダー 3−2.各作品論 〜フォーゼ

批評というものの役割について。またひとつに、それまで雑多な印象しか持てなかった対象にひとつ軸を導入して理解を手伝うというものがあります。これも綿密にやらないと「それはちょっとがんばりすぎだろ」ということになりますし、まずその軸の選択眼(=センス)が問われてきます。


Let’s スッキリ!『カブト』、『キバ』

従来評価が低かったり、あまり語られてこなかった対象でこれができるか、というのは、腕前を拝見といった挑戦的な見方をしてしまうのですが、今回は個人的には大満足。

樋口康一郎「仮面ライダーカブト 擬態・格差社会・コミュニケーション」は『カブト』を敵キャラ=ワーム、つまり擬態から読み解こうという試み。『カブト』は天道の俺様に集約される正義論で語られがちなのでこの視点は新しく感じました。あとは食育とかね。
これも、わたしはワームに関しては新味を感じていなかったのですが、擬態が奪うものが人格ではなくその人の居場所である、とすると、なるほど確かに昨今のなりすまし問題などにつながってくるところがあります。で、別にそれで「これはSNS社会の脆弱さを予見していたんだよ!」「な、なんだってー!」とかいう話ではなくて、そうすると『カブト』の持つ時代性についてちょっと目が開くという話。
まあ樋口さんの指摘するようにこのモチーフは雲散霧消していくわけで、でも確かにあの辺の葛藤はもうちょっと意識されても良かった題材だよなー、そしたらひよりやぼっちゃまを巡る物語がもっと駆動していたかもな、とうなずきながら『カブト』を思い出すわけです。


樋口ヒロユキ仮面ライダーキバ 怪物的宿命を生きる美の血脈」は『キバ』の物語がいまいちわかんなかったなーという方に読んでいただきたい。ゴシックの文脈で語りつつ、『キバ』の物語とは「善と悪」の対立ではなく「善と美」の対立であるという指摘には目からウロコですよ!以下ちょっと引用。

自分こそ善であると信じて疑わぬ者たちと怪物との対決を描き、悪にも宿る一寸の魂を描くことで、善とは何かを問い直すのがゴシック文学の骨法だ。その意味でイクサとキバの対立は、ゴシックの王道に忠実な構図となっている。

このように本作では「ファンガイア=美」と「イクサ=善」という対立が明瞭に看て取れる。つまりここでは「善と悪」ではなく「善と美」が対立しているのだ。(中略)ここで描かれているのは本来いずれが上位とは決められない「善と美」の対立であり、そもそも善悪二元論には回収できない。通常のゴシック系奇譚よりさらに困難な矛盾の間で引き裂かれるのが、主人公のキバ=紅渡なのである。

いや、わたしずっと『キバ』の物語に関してすわりが悪くて。っていうのは勧善懲悪にならないのはわかるけど、じゃあ渡たちはなにと戦っているのさ。『555』は力を巡っての葛藤でしたが、こっちだとファンガイアはファンガイアではっきり人と区別されていますからね。というわけでわたしは『キバ』の物語を種族間闘争と捉えて整理をつけていたのです。
「つまりキバの真の敵はファンガイアなのではなく、双方の種族が抱く善悪二元論なのである」という指摘に、なるほど、この軸を入れるとたいそうすっきりするな、理解が!

そのほか音也を「昭和のヒーローと平成型ヒーローのミッシングリンク」と指摘するなど、あ、なんかわたしこれ読んですっきりした。



主人公であるということ――『電王』

逆にすでに高評価だったりさまざまな論じ方をされていると期待値が低くなってしまうのですが、さて『電王』はどうでるか、と思っていたらこれはいい角度。入江哲朗仮面ライダー電王 電王はなぜそれでもヒーローなのか」は、電王=野上良太郎の主人公性の立証。

『電王』の人気の多くを占めるのがモモタロスをはじめとするイマジンたちのにぎやかさなのは異論を俟たないわけですが、そうすると良太郎べつにいらなくね?という暴論も出てきます。そしてまた、「『電王』はヒーロー番組ではないよね、おもしろいからいいけど」みたいな扱われ方もされてしまうわけです。

わたしはそれでも、ずっと見ながら、モモタロスたちに焦点が移行していきそうなものなのにそれをしなかったこの『電王』に感心していた。どこまでも飛んでいきそうな物語がヒーロー物でありつづけたことに目を奪われていた。
でも、じゃあ説明してよと言われてもできない。そのわたしのできなかった説明をしてくれている論です。

主人公が主人公であるということはどういうことなのか、それをイデオロギーからではなく構造から確認する作業。良太郎の正義が、とか、だから良太郎はヒーローなんだ、とかいう話じゃあないです。だからこそ大事なんです。

『電王』がヒーロー番組として真摯であると言えるのは、最後に示される結論によってではなく、むしろそのような終わらせ方をせざるをえないほどにまで問いが深められてしまったという事実によってである。

これからの物語 『DCD』以降

『DCD』以降の作品に関しては、やっぱりまだ時間が経っていないからかな?全体的にちょっと甘めな感じがしました。

石岡良治仮面ライダーディケイド 『仮面ライダーディケイド』、旅の途中」小野俊太郎仮面ライダーW ハードボイルドからハーフボイルドへ」はともに解体に終始していてあんまり新しい発想は見られない。それでも『DCD』の方は丁寧に解きほぐすことで、単にどういう番組であったかだけを語るのに終わっていないのはえらい。「最終的に物語を獲得する時点にまでたどり着いた」として、あの最終回を「失敗」とするのではなくひとつの到達点なのであるとする指摘は有意義です。
『W』はまだ語れる要素がいっぱい残っているんだからもうちょっとがんばっていただきたい。誉めて終わったんじゃ芸がなさすぎるぞ。


水無田気流仮面ライダーオーズ/OOO 愛と平和と自己決定」は「人を助けるとはどういうことなのか」にちょっと焦点がいきすぎており『オーズ』論としては範囲外に行きかけている。けれどもわたしとしてはギリギリ範囲内としておきたい。『オーズ』は見たら、結局そこまで連想が伸びちゃうからね。
ちょっと話はズレますが、この論もそうだし、この本ところどころで出てくる火野映司の人物像まとめが的確すぎて笑う。「身近な仲間との出会いによって救世主願望に折り合いをつける」(泉信行「拡散から求心へ)、「「どうすればヒーローになれるのかわからない」自分探しのお兄さんのお話」(宇野常寛「平成仮面ライダーという系譜」)。うむ、合ってる!


そして最後の飯田一史「仮面ライダーフォーゼ うちゅうひこうしのうた」。前半は番組の構造の整理なのでちょっとたいくつ。でもそれを踏まえて『フォーゼ』の時代における意味を論じようというのは丁寧です。フォーゼの正義を「対症療法的なヒーロー」と一言でまとめているのに感心。また、『フォーゼ』をちょっと低調に捉える宇野論に対抗しようという意思があるのがいいですね。
論題はどうかと思うけどな!


最後はちょっと駆け足にまとめましたが。以上です!どれもおもしろかった!