仮面ライダー電王10周年に寄せて 〜わたしと『電王』〜
※今回はただひたすら自分語りです。
もう10年、なんですねえ…
10年。小さなコハナちゃんを演じた松元環季さんが選挙権を得るほどの時間ですよ。
ちなみにこの間お久しぶりにお写真拝見しましたが超美人になられていて変なテンションになりました。驚きつつも納得し、感動するとともにあたまが下がるというか…
けれど、それだけの時間でありながら、人は毎日をせいいっぱい生きていくのに忙しくて、意識することはなかなかありません。
特に若いうちはみなそうなのではないでしょうか。
わたしも、若いころ――二十歳を少し越えたあたりでそんなことを思ったことはありませんでした。成人式だって、当たり前に来るものだと思っていたものです。それはそのまま、将来のビジョンというものが、靄に包まれていたことも意味しています。
むろん、すでにしっかりとした未来を描いていたり、描かざるを得ない人はいっぱいいて。でも、わたしはそうではなかった。
2007年。わたしは目指してした道と生き方にはねのけられてというかほぼ勘違いであったことに気づかされ(挫折すらできませんでした)、でも今更方針転換もできずに、それまで信じていた"自分らしさ"が崩壊していく中に埋もれて壊れかけていました。
というところで『電王』と出会ったわけです。
内容についての思い入れは何度か語らせていただいたので割愛するとして、この作品を皮切りにわたしは平成ライダーにはまりました。
精神的谷間の時期だったのもあり、一日2ディスク消化というスピードで、最終的には『ディケイド』が始まるまでにはコンプリートできていました。家の近くにレンタルビデオ屋が3軒あったのが勝因だと思います。いまは動画配信があるから便利でいいですね。
で、『ディケイド』初回をワクワクしながら視聴して、思ったのです。10年てすげえ、と。
記念回なんて生易しいものでなく、記念シリーズが出来てしまうほどの年月なんだ、と。振り返らないと初期が忘れられてしまうほどの年月なんだ、と。
果たしてさらに10年後、平成ライダー20週年がきたとき、わたしは何をしているのだろう?
いやその前に。『電王』10周年が来る。あれだけのヒット作だし、その後の展開を見ても、何もやらないわけがない。
平成ライダー10周年のお祭り騒ぎの中で、それまでの人生で一番はっきりとした手ごたえでわたしはこんなことを考えました。
『電王』が華々しく迎えるだろう2017年を、わたしは、今いるこんな暗闇で迎えるわけにはいかない。
わたしも胸を張って「『電王』10周年おめでとう。また会えたね」と言えなければならない。
一歩でも先に進んでいなくてはならない。
時間をテーマにした『電王』は、奇しくも、わたしに未来をくれたのです。
それからいろいろありました。最初はなかなか変化も起きませんでしたが、その中で、やれることはとにかくすべて手を出しました。
就職、転職、結婚。それから、このブログを始めたこと。
独り暮らしをやめて実家に戻る際、それまでの自分を背中から降ろしたくてほとんどの荷物を処分してしまい、大きなダンボール箱二つほどしか手元に残さなかったことを今でも強く覚えています。
とにかく前へ前へと願っていました。ともすれば過去を否定しそうになりながら、でもそれをしないで済んだのは、ずっと傍らに『電王』がいたからかもしれません。
わたしはずっと自己評価が低くて、それで夢にすがっていたのかもしれません。夢が夢でしかなかったことに気づかされた時、手の中に残っていたものは何もありませんでした。
でも、かつて愚かだったとしても、それでも培ったものもあったのです。そのおかげでしのげた局面もいくつもあったのです。
「変わることを恐れないで 明日の自分見失うだけ」「変わることもう恐れないし 変わらないものも大事にしたい」
気がつけば、わたしは今のわたしになっていました。
何が変わったのか、変わらなかったのか、もう、ほとんど自分ではわからないほどに。
というわけで、10年の時が巡り、いままたわたしは『電王』と向き合っています。
主演の佐藤健さんは押しも押されもせぬ立派な俳優になられました。年下の佐藤さんの活躍を目にし続けるのもまた、一つの刺激でありました。
あの夏、はじめて『電王』を見て心が奪われたあの瞬間から――
長く苦しく、でもあっという間の10年を経て。
今、わたしは胸を張ってこれを口にすることができます。
『電王』10周年おめでとう。また会えたね。
そしてこれからも、ずっとよろしくね。また20周年で。