double standard

平成仮面ライダーへの思い入れを語ります。現在は更新停滞中。

仮面ライダー部とチーム鎧武〜学校の内と外

さて10月から始まりました『仮面ライダー鎧武』。これまでのシリーズとはまたかなり手触りが違うのでいろいろ気になっています。
わりとおもしろく見ているんですが、これを仮面ライダーとしていいのだろうかという疑問はつねに胸に…。まあ、そんな戸惑いも含めて楽しんでいます。

さて、他の例に漏れず『鎧武』もいろいろと試みが多いですが。わたしが気になっているのは、今回は出発がはっきりと大人と対比しての「若者の物語」とされていること平成ライダーが青年の葛藤の物語であることはさまざまに指摘されていましたからね。そこを明確にして踏み込む、ってのは、すごく楽しみです。
んでですね、若造のライダーと言えば、想起するのが先行作である『仮面ライダーフォーゼ』。なんせこちらは、そのものズバリ高校が舞台でしたので。
お互いそれぞれ「チーム鎧武」と「仮面ライダー部」という子どもだけのコミュニティを持っていてそこが主な足場にしているし。
なんですが…同じように見えて、二つの感触はかなり違う。
そこんところちょっと考えてみました。


学校の内〜仮面ライダー

仮面ライダーはそもそもが境界線上の存在であります。逸脱者なわけですね。
そうした組織の逸脱者を子ども社会で描く上で、まず『フォーゼ』はどうだったか。

『フォーゼ』の主人公である弦太朗は、いわゆる「不良」…作品中では「BAD BOY」と呼ばれていました。髪形はリーゼント、制服は短ラン。やりたい、しなければと思ったことは、規則を飛び越えてする自由さを持った少年です。
なんですが。これ、単に「不良の服装をしている」だけなんですよね、弦ちゃん。見た目が不良なだけで、中身はただの問題児なんですよ。
だって、校則違反は服装くらいで、これは美学だから譲れないだけで反抗精神からではないですし、煙草を吸うでも暴力を振るうでもありませんし。先生から見たら手を焼くやんちゃ坊主ですが、べつだん悪いことはしていないんですよ。

そんでもって、彼が所属し、仮面ライダーの力を行使する枠である「仮面ライダー部」とその部室である「ラビットハッチ」。これ、「部」。もうこの時点ですでに彼らは、自分たちを学校に繋げているんです。
もちろん、最初は先生もおかず、自主的な集まりでした。でも、「部」と名乗った瞬間から、彼らは学校から離れていないと言うことを示すことになったんです。それこそ、自主的に。

『フォーゼ』は一見、派手に逸脱しているようですが、その実おもいっきり体制に留まっている作品なのです。

学校という体制の中の避難所…とも言えるのですが、彼らがそれに無自覚すぎて、それよりかは楽しいひみつ基地って感じがします、「仮面ライダー部」。根が素直だもんなあ、あいつら。


学校の外〜チーム鎧武

では一方で『鎧武』はどうか。

「チーム鎧武」はストリートダンサーの集まりです。ストリートダンスは別に違法ってわけじゃないんですが、学校や家といった大人の監督からは外れているので、逸脱者に近いといえます。
また、インベスゲームという明らかにアブナイことをしている。法律に抵触してるわけじゃないんですけど、これは一歩進めば武力抗争、あるいは賭博という違法をはらんでいます。

そんな彼らが、じゃあなんで逸脱してしまうのかって行動原理は、第4話ではからずもミッチが示してくれましたが。自分たちだけの場所を作りたい
学校でも、家でもなく。…紘汰はあんまり深く考えていないようだけど、戒斗にもその気配を感じます。
彼らは逸脱したい、むしろ。自分の可能性を自分で手に入れたい。ゆえにこそ、やってることこそ違法ではないというのに、いつかどこかで完全にはみ出してしまう可能性を強く感じさせ、警戒心を抱かせるのです。

『鎧武』は一見、まだ安全圏にいるようですが、その実かなりきわどいところにいる。
『鎧武』ってなんかある種のうさんくささ、いかがわしさを感じるのですが、たぶんこの辺が原因だと思います。完全にはみ出していないからこそいかがわしい。
体制から片足はみだしてるって感じですかね、「チーム鎧武」は。

とはいえ、インベスゲームもどうやら市という体制にコントロールされているようで…。
いまだ大人の手のひらにいることに気づかず、逸脱することで存在証明を求めようとする姿は、なんというか痛々しさも感じます。子どもの必死さは大人のそれよりも剥きだしだから。


二つを比較して

仮面ライダーとはすなわち「力」。その「力」を子どもが扱うという危うさがこの二つの作品にはあり、それが他のシリーズとはまた違った特徴を与えています。
その「力」の扱いを巡って、『フォーゼ』は危ないように見えて実は安心。『鎧武』はセーフに見えてアウトすれすれ。という描き方。

もっと言うと、『フォーゼ』は「不良」って看板を持ってきておいて安全安心に仕上げ、『鎧武』は「ダンス」って看板を持ってきておいて危険な香りを漂わせている。

似通っているどころか、方向性が思いっきり真逆なんですね、この二つ。

さてまあ、どっちを好むか、あるいはどっちもダメか、もしくはどっちも好きかっていうのは、完全に趣味の領域になりますし、これ以外の要素…描き方なんかも関わってくるのでその辺は別に語りません。
ただこうして比較してみて、あらためて同じ題材を使ってもアプローチがまったく異なる作品が生まれるのが平成ライダーのおもしろいところだな、と。

というわけで、『フォーゼ』とはまた違った若者の物語をどこまで・どう描いていくのか?『鎧武』。ってなところですね、わたしとしては。


追記

どっちがどうとかそーゆう話はおいといて。ただここで『鎧武』わりと好きとか言うと、不良が好きなのかと返されちゃいそうで、最後にその辺を註釈して終わります。

『鎧武』はアウトすれすれです。普通に生活している身としてはあんまり近寄りたくない(笑)
でも、「力」を行使する舞台としてみると納得してしまったりするんですよね。
だって、「力」は危険なものだから。時に人を死に至らしめる。それほどのものが、アウトでないわけがない。
むしろいかがわしさをはらんでいるからこそ『鎧武』は見ることが出来るなー、とか、今(6話終了時点)のところ思ってます。
あとストリートギャングにありがちな「仲間以外どうなってもいい!」みたいな排他性は感じないしな。…今のとこだけど。さてこの先どうなるか?