dビデオスペシャル 仮面ライダー4号
タイミングが妙になってしまいましたが・・・やっと見ました!そしていま泣いています。
いやあ、なかなか近所のレンタル屋が旧作扱いにしてくれなくて・・・というかまだ新作扱いなんですけど。諦めて借りてきました。見終わって、もっと早く諦めれば良かったな・・・と思いつつ。
ネット配信、こんなことできるの?/するの?/しちゃうの? と、さまざまな感情が胸の中で渦を巻いております。
あらすじというか、内容はこんな感じ。
新たなる仮面ライダー、その名は4号!果たして彼は敵か味方か?
そして、映画『3号』であえなく命を落としたはずの剛は、いったいいかにして本編に復帰できたのか?
立ち位置としては、『スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号』のスピンオフとして。
それだけではありません。『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦feat.スーパー戦隊』『3号』の二作が行ったことに対する責任、その引き受けとして。
なにより――『仮面ライダー555』の真の完結編として。
『dビデオスペシャル 仮面ライダー4号』かなりやってくれちゃったな!
というわけで、『4号』を自分なりに読み解いてみました。
要素多い!刺激を受けて、今回、久しぶりにがんばってしまいました!
いつものように記事長いけど、よろしくおねがいします〜。
あ、あと、物語の謎解きも含んでおります。
1.なぜ巧は消えなければならなかったのか?
2.海堂はなぜ事態を認識できていたのか?
3.ショッカー首領の正体とはなにか?
よしなに。
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『仮面ライダー4号』は何を狙ったか?
まずは、大元の整理から。まあ、『仮面ライダー4号』といっているわけですから、『555』のお話であることは実は二次的なんですよね。
テーマは――おそらく――「生の意味、死の意味」。
規制が厳しくなってきているとはいえ、本編でもこのテーマはゆるぎなく考えられてはいます。いますが、表現自体がオブラートに包まれるようになってきた(血が出ない、とか)。
ネット配信という強みを生かして、繰り返される死の悲惨さが描写され、「犠牲に意味はあるのか?ただ悲しいだけじゃないのか?」と考えさせてくる作りになっております。
死を否定することで、4号という悪のライダーの誕生を許してしまったわけですが。死を受け入れたことでその4号(悪のライダー)を打破することができた・・・という風にも読み取れるかと思います。
個人的には、監督が山口さんだったからか、バトルの撮影を長めにして、いろいろとチャレンジしていたのが印象的でした。
こういうゆったりした尺の取り方は、Vシネマでもあまりできませんものね。
…さてここまでは、わりかしアッサリと流し見た感想ですが。こっからが本番だ。
『4号』とは、4号とは、何か?
3号は、いわば昭和と平成をつなぐミッシングピースの位置づけなんですよね。動機や行動は昭和的だけど、葛藤するさまは平成的。
結局書きそびれてしまいましたが*1、一連のライダー大戦で、プロデューサーの白倉さんが目指したのは昭和ライダーを過去のものにせず、一方で平成ライダーを異端にしない・・・昭和と平成の二つを対立するものではなく連続体であると示すこと、だったと思います。
そうした点を引き継ぎ、では4号はなんなのか?結局、最後まで敵=悪のライダーだったわけですが、4号とは昭和-平成ラインの中でどんな存在なのか?
まずは、3号ときて4号ということ。
素直に見ると、車に乗ったライダーとして3号の次に出す可能性として、飛行機に乗ったライダーを出してくるというのは、自然というか、可能性を出し惜しみしないのは白倉さんさすがだなと、と。
つまり「発展系」ですね。
ほかには、ショッカーライダーを引き継いだ「正義にならなかったライダーの系譜」としても、読めるかなと考えています。
この辺は、声を担当した松岡さんが仮面ライダーエターナル*2につなげたいとおっしゃったことで、より強く意識されるようになった線だと思います。
さて、そこから何が見えるかというと・・・3号と同じく、4号もまた時間の泡として消えていきました。ということは、つまりは彼も「可能性の存在」なのではないでしょうか?
そして、そうした位置づけが出来るのだとなると、「仮面ライダーシリーズ」の自由度はとてつもなく広がることになると思います。
正史としての本編。番外編の映画。スピンオフのVシネマ。再解釈の小説。
ときて、IFを発信できるネット配信。こんな感じの位置づけでしょうか?
うーむ。可能性を生み出す…これだけでも非常に刺激的な作品になっていますよねえ。
でも、なぜか、どうしてか、それだけでは終わっていないのがこの作品の特徴でもあります。
では、なぜ『4号』はこうまで『555』の話でもあるのか?それがテーマとどう関係しているのか?
なぜここで『555』なのか?
ズバリは、「生の意味、死の意味」というテーマが非常に直結している作品である、ということがあるでしょう。
同じく死の匂いが濃厚といっても、主人公含めて全滅してENDという『龍騎』や、ある程度作劇上の必要があって死人が出ている『鎧武』、『ゴースト』にいたってはまだ生き返りの可能性があったりします。
ので、「あの死には意味があったのか」という苦悩を背負うのは乾 巧が相応しいといえます。
次に、「しかし『555』は10年前にすでに終わった作品である」というところ、だとわたしは思います。
いま再び表舞台に引っ張り出してしまった。その責任を、映画でもVシネマでも小説でもなく、「IFを出せる場としてのネット配信」に託したのではないか。
そうなのです。『555』は終わっているのです。あのとき、どうしようもなく。
乾 巧が呼ばれたのは、『平成対昭和』という大テーマを引き受けさせるには、たぶん白倉さんには『555』しかなかったからだと思います。しかし同時に、静かに眠っていたはずのものを呼び起こしてしまった。
一応、本編とはズラしたものとしましたが、もともとがそれほど「なんでもあり」の世界観ではなかった以上、居心地の悪さは払拭できませんでした。
それがあっての、今回のこのお話ではないかと思うのです。
なぜ巧は蘇ったのか。あるいは、二つの『555』。
『4号』内で示されたとおり、『3号』〜『4号』ラインの乾 巧は本編と同じです。
しかし――『平成対昭和』では、描かれたとおりパラレルな存在となっています。
これはどういうことなのか?
それを考えるために、『3号』〜『4号』ラインの巧がどのような存在なのかを推察してみます。
けっこう入り組んでいて謎が多いんですよね、『4号』。そもそも、歴史改変装置を壊せば巧が消えるわけですが、なぜ消えるのでしょう?
ねじれた時間の起点は剛が死んだところでした。しかし、巧はその前から存在しています。なのになぜ、巧が消えなければならないのか?
おそらく巧は、3号が存在することになったねじれにより、召喚されたのではないでしょうか。
巧が、本編『555』が存在したのは、1号2号が3号に殺されなかった時間です。その中で、生きて死にました。
しかし1号2号が殺され代わりに3号が存在するように改変された時間では、巧は死ななかった。しかし、その生はいわばかりそめのものであり、3号が消滅すると同時に巧も元の時間軸通りに死に戻る・・・はずだった。
けれど剛の死を嘆くあまり(そして己の生を愛するあまり)歴史改変装置を作動させてしまい、剛や進ノ介とともにねじれた時間の中に存在するようになってしまった。
つまり、『3号』〜『4号』の巧の方がイレギュラーなのです。
『平成対昭和』はそのままパラレルと受け止めるべきでしょう。そしておそらく、その方が正しいのです。
映画である『平成対昭和』『3号』はマスに向けたエンタテイメントです。というわけで、そんな難しいことは提示せず/するべきではなく、巧だ巧だわーいわーいとファンは楽しむべきですし、そうあるべきなのです。
『4号』は言ってみれば裏設定です。
巧を呼び起こしてしまった『平成対昭和』で、その責任をとったのが『3号』ひいては『4号』なのでしょう。
今後、まだもしかしたら巧は映画に出るかもしれません。そのときは、わたしたち視聴者は心置きなく「これはパラレルだ。本編の巧はもう眠っているのだ」と割り切ることになるのではないでしょうか。
物語上の二つの謎
『4号』は謎解きの物語ともいえます。その謎は、作品内では言語化されていません。
巧はなぜ消えなければならなかったのか?を問い詰めると以上のようなさらに踏み込んだ解釈が出来るように、ほかの謎もまた、単なる謎ではなく、構造そのものに密着しています。
まず、なぜ海堂は事態を認識できていたのか?
これに関しては、その方が話として美しいから・・・以上!でもいいような気がするのですが、作っているのが白倉さんと毛利さんなのでもうちょっと踏み込みたい。
わたしは、海堂がオルフェノクだからかな、と考えています。
つまり彼は一度死んでいる。世界から一歩だけ疎外されている存在です。だから、時間のねじれの中にいながらも外部の視線を持つことができたのではないのでしょうか。
また・・・そう考えると、あの海堂が、おそらく木場や結花ほどに思い入れのあるわけではないだろう巧に執着した理由も見えてくるのではないかと。
海堂は一人ぼっちなのです、この世界で。
一度死んだ存在として、つねに世界と交じり合うことができない、ある意味で亡霊なのです。
同じオルフェノクであり、また木場や結花の記憶を共有する巧を失いたくなかった気持ちは、察するにあまりあります。
巧は剛に言いました、生き残った方は死んだ人を背負って生きていかなくてはならないのだと。
海堂もまた、背負っているのでしょう・・・
(ところで、555にとどめをさされても海堂が灰にならなかったこともまた、あの世界が幻であると示唆していると含めていいのでしょうか?わたし、これだけは(なぜか)解釈しきれずにいます。)
もうひとつは、ショッカーの首領は誰だ?ということです。
まあ、あれも、その方がびっくりするよね・・・以上!でもいいような気がするのですが、毛利さんが絡んでいるのでもうちょっと踏み込みたい。
わたしは、あのもう一人の巧は、文字通り「もう一人の巧」ではないかと考えています。
そもそも、この平成の世にショッカーの首領って、なんなんでしょうかね?
明らかに、昭和のときの「世界征服を目指す悪の首領」の形骸でしかありません。ヒーローが倒すために結集するための、いわば的です。
となると、その存在は空白と捉えられます。誰であってもいい。正体なんかどうでもいい。
『4号』における時間のねじれは、巧の思いが作り出してしまったものでした。そうすると、あの世界はある意味で巧が作ったものと言ってもよいでしょう。
巧は願った、剛が生きている時間を。自分が生きている時間を。そのためには――敵が必要です。なぜなら仮面ライダーの物語は、敵がいて成り立つのだから。
正当な時間ではショッカー首領は滅んでいます。では?
巧が願えば願うほど、敵が必要になる。その思いに比例するように、4号は着々と作られました。
そうです、巧とショッカーは連動しているのです。
ショッカー首領というブランクを埋めるのは、こちらもまた巧の思い。…よって、『4号』の巧は、ショッカーの首領でもあらねばならなかったのです。
これは…まあ、なんて哀しく、グロテスクな構造なのでしょうね…
巧は言いました「そういうことか」と。それを受けて、進ノ介は土壇場で怖気づいたように「なあ、やっぱり考え直さないか」といいました。
あまりにもあまりにな結末…
しかし、だからこそ巧は自らの手で幕を引いたのです。
ショッカー首領である巧の変身が、蝶に包まれるのは示唆的ですね。
蝶というのは、胡蝶の夢という話があるように、現実と幻を漂う存在の象徴であります。
青い蝶は555や913を開発した企業スマートブレインのモチーフですが、そもそもがその辺を念頭において採用されたのだろうと考えると、この場面でも強い意味を持っているような気がします。
そして、『555』完結編として
さて…というように非常に残酷な側面のあるお話でした。が。
それでも、この『4号』は、『555』の完結編として美しく成立していたと思います。
それは、巧が、あの乾 巧が「生きてるってのは、やっぱりいいもんだ」と呟き、その生を惜しんだからです。
『平成対昭和』で忠実に再話されたように、巧は自分の生に自信が持てず、ために生きていることについて罪悪感を抱いてさまよう儚い魂の持ち主でした。
そんな彼が、そんな彼なのに、いやそんな彼だからこそ他人の命には人一倍敏感で、戦いに身を投じずにはいられなかった。その物語を見ながら、わたしたちは、巧に戦ってくれてありがとうと言いながら、一方でどうにか笑って欲しいと願っていました。
ちなみに巧はほとんど笑わないんですけど、他人のためには笑うんですよ(啓太郎が結花を受け入れたときのあの幸福さ!)。
物語の最後に彼はついに夢を掴んだわけですが…しかしそれは、他の人へと託す夢でした。自分自身の夢は結局飲み込んだ。
そんな巧が。
生きたいと願った。
死ぬのは怖いと言った。
歴史を改変してしまうほどの強い思いで。
たっくん!!!
それでも巧は消えなければならない。それが正しいからという理由からだけじゃない。巧は、わたしたちと共有したあの戦いをあの思い出を、否定したくないと言った。死んでいったやつにも意味はあると。それを信じているから。
だからわたしたちは嬉しい。哀しくて切なくて涙を流しながら、それでも嬉しい。
今書きながら思いついたんですけど、巧がみんなの記憶からいなくなっちゃったのは、時間軸の問題もあるけど、もしかしたら巧自身の願いなのかもしれない。自分の死を、剛や進ノ介や侑斗に背負って欲しくないからと。彼なら考えそうなことです…
巧の復活は結局時間の中の泡のようなもので、儚く消えてしまったけれど。
でも、巧のいなくなった空間には、青空が広がっている。
そして、これからの時間を守る仮面ライダーがいる…
死をなかったことにはしない。どれほど哀しくてもさびしくても、それでも、死んだということは彼らは生きたのだから。
まとめ
『仮面ライダー4号』――それは確かに、生と死の意味をめぐる物語でした。
追記 で、これからは?
それにしても・・・流れの中とはいえ、「正義の味方の物語は敵がいて成り立つ」まで触れちゃってるので、かなりキワドイ話だし…
ネット配信もこの先どうなるかわからないし…
そして既存の作品にすごいアンサーを出しちゃってるし…
またなんかギリギリなラインに踏み出したライダー大戦はこの先どうなるの?どこへ行くの?*3
追記2 入れられなかったただの感想
あの破れたネットから巧を覗くカメラワークには、本当に感動しました…
作中ではっきりと「木場、草加」と物語にいない人物の名前が出てきたことにびっくりしました。
だって、知らない人には意味不明だから、ふつうは出さないようにするんですもの。
でも、嬉しかった…
海堂は「あいつらだってそう(=生きろ)言うよ」といいましたが。
しばらくわたしも考えて…確かに言いそうだな、と思いました。
草加はきっと、わざわざ死ぬなんてバカバカしい、とかなんとか言うよね。復讐を遂げるために、歯をくいしばって真理の死を選び自分がカイザであることを選ぶほど、生きる意志のある男だから。
木場は…あの儚い優しい男は、きっと、目の前の死を見逃したくて、生きろと言うだろうな。
でも、真理や啓太郎がいたら、たっくんのやりたいことを選びなよと言うだろうけど。
生きろ、という言葉が、ただ前向きなだけの言葉にならないことも、きっとあるんだ。
進ノ介はさすが刑事なだけあって、事態の分析と言語化が速いな!
巧の死に憤る剛は、駄々をこねているようにも見えて、ああ、若いんだなあ彼は…と思いました。だから蛮野にあんないいように…くう…
侑斗は、巧の決断には何も言わなかったのが印象的でした。彼も狭間の世界にいる男だからな…
進ノ介と剛と侑斗に全然触れられなくてごめんでした…
追記3 『DCD』から時は流れて
それにしても、白倉さんらしい責任の取り方と思うけど、でもここまできたもんだなあ。
あの『DCD』テレビ本編後半を思い出すとね…
『DCD』のあの惨状は、ひとつに白倉さん自身が寝た子を起こす意義を、頭ではわかっても気持ちの方で受け入れられなかったからだとわたしは思ってます。
当時、整理がついたら白倉さんにまたライダーを作って欲しいと思っていたけど、それがいま見られているのかな。